以前のレポートにも登場した大観宮とは、ねずみ講集団である天下一家の会から

税金対策として生み出された、殆ど実態の無い宗教法人の名称です。

天下一家の会のキャッチフレーズである「救け合い」の、文字入り湯呑みも発見。



当物件と「大観宮」に、何らかの関わりが有るのは間違い無いようです。

考察点は山ほどありますが、とりあえず脇に置いておいて

もう一つの建物である小さなお堂を目指します。



何だかがっかり感が漂う、トタン仕立ての簡易的なお堂。

無駄に荘厳なのも嫌だけど、もう少しこう、雰囲気と言うか…。




先のパンフには霊地とありましたが、しっかりと寺院名も持っています。

書かれている宗派は現存し、内容にも特に問題は有りませんでした。




私の部屋よりも小さな堂内は、卒塔婆や仏具が散乱し異様な光景。

周囲が藪の為に中は薄暗く、緊張感は否が応でも高まっていきます。




当寺の住職であるY龍先生は、全国各地を行脚して修業を積み、

偉大なる観音力と法力で、どんな難病でも治癒するとの事。

突っ込み所は多々ありますが、あえて語りません。



各種残留物から見ても、一応の稼働実績は有った様です。

逆に、何故このような状態で放置されてしまったのか気になる所。




胡散臭さはともかく、水子供養の概念には偽りは無さそう。

遺された玩具や菓子等のお供物からも、天国の小さな子供達に

気遣っていた事は有り様に感じられます。



倒れた扉の隙間から落ち葉や砂埃が入りこみ、徐々に風化の進む堂内。

正に仏教で云う「諸行無常」が、具現化された空間であるといえよう。




偉大なるY龍先生は、全てを遺して何処へ消えてしまったのだろうか。

再度修業の旅へ出たか、それとも…。





通常ならば、廃墟が噂を呼んで心霊スポットに化けていきますが、

当物件は逆に、心霊スポットを良く調べたら廃墟だったという、珍しいケースです。

場所が山中深くなので、情報が無かったらまず辿りつけません。

また、現地に着いても建物は見えず、近づくには膨大な藪漕ぎが必要です。

寺の建立時期は昭和55年で、予想通り左程の歴史はありませんでした。

残置されたカレンダーの日付は昭和60年であり、単純に考えると

稼働実績は僅かに5年、廃墟年齢は現在迄で29年程となります。


時系列が分かった事で、改めて確認しておきたい「大観宮」との関係…。

大観宮の基である天下一家の会が破産宣告を受けたのが、昭和54年です。

そうなると、破産の年より寺の建立の年が後となる訳で、

両者が関係しているならば、普通なら其のような時期に

寺の建立はしないのではないかと思うのですが…。

以前のレポートに記載した修業所も、閉鎖は昭和54年である事から、

結果、「大観宮」と当物件に直接的な繋がりは無かったものと考えられます。

ただし、お守りが存在した時点でかなりのグレーとは言えますが…。


戦後の日本において、様々な要因により人口妊娠中絶が大幅に増加し、

それを受け、昭和後期には水子供養の概念が大きく広がりを見せました。

広がりには、儲けを目論んだ寺院や墓石業者が一枚噛んでいたとも言われています。

水子供養という大きな需要に対し、供給が必要になってくる訳ですが、

やはり水子供養となると街中の一般的な寺院では相談し辛く、

結果、静かな山中にて水子供養専門の寺院が在れば良いという結論へ。

当物件の成り立ちも、おそらくその様な考えに基づいての事でしょう。


しかしながら、当物件が出来た頃には既に水子供養の概念も変化しており、

障りに怯えて寺院へ駆け込むような事はせず、

身の回りで、さり気なく静かに供養を想う形が多くなりました。

いかにせん山中すぎる立地や、誇大広告な妖しいパンフも影響し、

おそらく余り利益は出ていなかったのではないでしょうか。

住職が姿を消したのは、単なる店じまいか、はたまた出奔か。

悩める人達を救う意思は確かに持っていた筈なのに…。

改めて、先にも述べた「諸行無常」を感じる次第です。


一物件の紐解きが、つい長文となってしまい申し訳ありません。

ここまでお付き合い頂いた方、どうも有難うございました。




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